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ナイツの笑い

 先日(11/20)の『ウソと笑いとノーベル賞』の中で、『腕のある芸人は、かなりおかしいことをずばっというが、「全然おかしくないよ」という顔をしながら、さらっという。顔だけで、ちょっとしたおかしさのことを何倍もおかしく見せるというところがあるという』と書いた。漫才師のナイツにこの実例のようなネタがあったので紹介する。

①ヤワラちゃん

塙 :不思議なことありまして、高橋直子は金メダルひとつで国民栄誉賞受賞してるんですよ。ただ、ヤワラちゃん2つ取っているのに、国民栄誉賞取っていないんですよ。

土屋:なるほどね。

塙 :これ、おかしくないですか?

土屋:まあ、難しいですよね。国民栄誉賞っていうのは。

塙 :何でヤワラちゃんが国民栄誉賞受賞できないか、自分なりに考えたんですよ。

土屋:はあ、自分なりに。

塙 :ヤワラちゃんってね。ちょっと他のスポーツ選手に比べて美人過ぎるじゃないですか。ちょっと綺麗過ぎるじゃないですか。だから、あれだけ綺麗な人に賞を与えてしまうと、国民から嫉妬とか妬みとか、そういうのの対象になっちゃうじゃなないかなって思うんですよね。はい。

土屋:……まあ、個人の見解なんでね。

塙 :そういうのありますよ。

土屋:苦情は受け付けませんよ。

塙 :人間ですからね、そういうのあると思いますよ。


②なでしこジャパン

塙 :国民栄誉賞といえば、去年のなでしこジャパン。全員で受賞したじゃないですか。

土屋:大変なフィーバーになりました。

塙 :あれ、おかしな話なんですよ。大して活躍してないヤツだっているんですよ。

土屋:そりゃチームスポーツなんだからね、しょうがないじゃないですか。

塙 :おかしいでしょ。あれはね、澤穂希選手だけでいいんですよ。

土屋:まあね。キャプテンとしてチームを引っ張って、得点王にもなりましたけど。

塙 :一番活躍してますから。

土屋:まあ、そうですね。

塙 :ただ、何で澤穂希選手ひとりだけ受賞っていう形にならなかったのか、これは理由があると思うんですよ。

土屋:理由はあるでしょうけど。

塙 :澤さんってちょっと美人過ぎるじゃないですか。他のスポーツ選手に比べてね。ちょっと綺麗過ぎるじゃないですか。だから、あれだけ綺麗な人にさらに賞を与えてしまうと、他のチームメイトから嫉妬とか妬みとか、そういうのの対象になっちゃうじゃなないかなって思うんですよね。はい。

土屋:まあ、今は温かい目で見守ってもらいたいと思います。

塙 :そういうのあると思いますよ。

土屋:いずれ、気付く時が来ると思いますけどね。

ウソと笑いとノーベル賞

 2012年10月8日、スウェーデンのカロリンスカ研究所は、今年のノーベル生理学・医学賞を、生物のあらゆる細胞に成長できて再生医療の実現につながるiPS細胞(人工多能性幹細胞)を初めて作製した山中伸弥京都大学教授に贈ると発表した。

 この発表のわずか3日後の10月11日、このiPS細胞から作った心筋細胞を、重症の心不全患者に移植する手術が、米国ハーバード大学の森口尚史客員講師らで作るチームによって実施されていたと読売新聞が報じた。森口講師は取材に対し、「日本では、この治療法の認可が煩雑で、彼らを救うことはできなかっただろう」と話したという。

 ところがその後、この森口氏の発表は虚偽であることが判明し、読売新聞東京本社は11月1日付で、編集局長を役員報酬などの返上、科学部長を更迭、科学部のデスクを減俸の処分にした。

 この一連の報道を聞いた我々は「ああ、やっちゃったな」という、いささかの感慨を受けたはずである。大半の人は、森口さんが「功名心に駆られ止むに止まれずウソをいい」との構図を描いただろう。しかしそれは早合点かもしれない。

 そもそも、森口さんはずぶの素人ではない。解雇されたが「東京大学医学部付属病院特任研究員」であって、iPS細胞の研究をしていた。発表した自分の「成果」が学会や仲間の中でどのような判断を受けるか事前に解っていた。いや解りすぎていたはずだ。つまり彼は、自分のウソが必ずばれると思っていた。確信犯とは、それが悪いことと知りつつ、あえて行う行為だ。彼は積極的に確信犯となり、ウソをいったのではないか。

 ある専門家は、彼の一連の行為について「一世一代のコント」と評している。笑いのセンスを持った玄人のようだと言い切っている。釈明の会見で、森口さんは言った。「手術したのはハーバード大学の近くの病院。その病院名は言えない」。記者が「もうウソと認めましょうよ」と促すと「ウソといわれればウソかもしれないが、ウソをついたつもりはない」。

 「つまらない事実より、おもしろいウソを」と言った芸人がいる。別役実に言わせれば、腕のある芸人は、かなりおかしいことをずばっというが、「全然おかしくないよ」という顔をしながら、さらっという。顔だけで、ちょっとしたおかしさのことを何倍もおかしく見せるというところがあるという。いわば、マジメな顔してウソをつくのである。そこに若干深く、大笑いといわれる一瞬のものではない、じわじわ迫って来る笑いが生じる。

 しかし、プロの芸人でもない素人が、誰かをこの手の方法で笑わせることは容易ではない。こちらは、「かなりおかしいこと」と認識しつつも、相手によっては「本当のこと」として思い違いをされて、最後にはウソつき呼ばわりされてしまうことさえある。反対に、瞬間にウソとばれてしまっては効果が薄い。相手に少し考える間を持たせ、「何だ、ウソだったのかよ」と気付かせるくらいがちょうどいい笑いに繋がる。こちらと相手の関係を十分に加味した上で、マジメな顔をしておかしなことをいい、相手に割りと早めにウソと気付かせるのである。

 つまり、まず大切なのは関係なのだ。森口さんの場合、相対するのは読売新聞の記者たちと、その背景にある一般読者である。「ハーバード大学の研究員」、「東大病院の医師」など、めまいのするような大権威で記者を酔わせ、山中教授のノーベル賞受賞で勢いづいたiPS細胞ネタで「大スクープ」をえさに記者を釣ったのだ。森口さんは近所のおばさんにまで「東大教授」、「ノーベル賞候補」と周到な準備をして、周辺取材への対応まで怠らなかった。

 しかも、森口さんの巧妙なところは、発表の内容が「人を救った」という極めて単純明快で、成果が素人にわかりやすいことだ。そもそもiPS細胞のような、生物の細胞を一旦初期化して、あらゆる細胞に成長できるようにできるという、まるで魔術のようなことはにわかに信じがたい。それを逆手に取り、ワンフレーズで見事に言い切ったセンスを専門家は玄人のようだと賞賛しているのだ。

 次にタイミングである。時限爆弾のように、このウソは時間が経過すれば爆発する。読売新聞に掲載されるまで、ウソがばれてはいけない。世間が山中教授のノーベル賞受賞の熱が冷めないうちに、読売新聞が「大スクープ」として記事にすることを望んでいることを、森口さんは知っていたに違いない。
そして、釈明会見である。会見場はコントの舞台と化し、「マジメな顔」をした森口さんがおかしなことを言う。ウソが過剰にサービスされ、だまされた記者さえ笑いを誘うものであることに、軽い衝撃を受けたはずである。これで一連のコントが終了したのだった。

 ただ疑問が残る。なぜ、森口さんはウソを言ってまで、我々を楽しませるようなサービス精神を持つ必要があったのかということである。このことを考えると、私はもう20年以上前のマラソン中継を思い出す。

 ある選手は、そのマラソン大会で15kmくらいまで。世界最高記録を上回るハイペースで走って先頭に立った。そのおかげでテレビにずっと映り続け、その後失速して棄権したのだ。マラソンの解説者は「目立ちたがりの男ですから。そのうち脱落します」と冷静に言ってのけ、そのとおりとなった。この選手に功名心への野心はない。彼は、マラソン大会に出場できる選手であり、素人ではない。自分の走りが一時的であり、その後どうなるか事前に解っていた。いや解りすぎていたはずだ。

 同様に、森口さんも決して功名心ではなく、一度だけでも注目されたかったというのが、本当のところだろう。しかし、結果として「一世一代のコント」となってしまったことが、この話を週刊誌的にさせ、さらにウソと笑いの関係を我々に教えてくれたと言えないだろうか。ネット上では、森口さんについて「平成のブラックジャック」、「笑いのノーベル賞」などと一部ではあるが「賞賛」する立場の人さえいる。

 もちろん、森口さんのウソを、科学技術研究における「あるまじき行為」とする向きもある。当然かもしれない。これは極めて常識を備えた考えだ。しかし、その代償は「もう研究はしない」という「卒業宣言」で自ら帳消しとし、共著とされ「被害者」となった研究者も新聞、テレビに取り上げられる恩恵に浴した。何よりも森口さんは、誰からも金を詐取していない。そして、第三の権力といわれる大マスコミと刺し違えた功績は大きいと人々は思っているのである。

 さて、大新聞など大マスコミに対し疑い深くなってしまった我々は、本当にiPS細胞のような呪術を信じていいのだろうか。ノーベル賞という日本人が震えてしまうような権威にだまされているのではないか、と考えてもいいはずである。いまだに、アポロ11号の月面着陸の映像は。実はハリウッドで撮影されたものだと疑っている人はたくさんいる。それを否定する根拠がないのと同様だ。

 中山教授は整形外科医として腕が上がらず、研究者に転進し様々な挫折を乗り越え、今回の受賞だ。受賞理由は、「細胞や器官の進化に関する我々の理解に革命を起こした」ことである。教科書に乗るような美談だ。文武両道でマラソンも完走でき、まず奥様に感謝したいと語る愛妻家でもある。だから、我々はロマンとしてこの報道を信じるべきだ。

 これがウソだったら、もう笑いにはならない。時間が経ってしまって、信じてしまっているからだ。

文章を創造することの難しさ

 読むことが好きな人は、そのうち書きたいと思うようになるだろう。私もその一人だ。しかし、読むのと書くのはまったく別。まず方向が違う、逆方向となる。そして、書き手となれば、創造性が必要となる。単に創造性といっても、これは雲をつかむようなものとまではいかないまでも、凡人が想像し浮かび上がった一つひとつの「気付き」や「閃き」はとても小さいことである。もちろん、小さなものでも苦労するのであるが。

 ジェームス・W・ヤングに『アイデアの作り方』という著書がある。広告系の仕事をされる方には必読書と聞いたことがあるが、もっと普遍的である。解説に、もう亡くなった竹内均(地球物理学者、科学雑誌ニュートンの元編集長)が寄せていることがそのことを証明している。この『アイデアの作り方』によれば、「アイデアは新しい組み合わせである」という。確かにそうなのだろう。

 たとえば、今この文章を打っている「キーボード」と先ほど食べた「柿」を組み合わせるのだろう。「キーボード」から連想するものは、「パソコン」、「マウス」、「アルファベット」・・・、「柿」から連想するのは、「パーシモンのヘッド」、「小田急線の柿生駅」、「柿食えば 鐘が鳴るなり 法隆寺」・・・である。その核となる事柄から連想されるもの、背景を頭の中で渾然一体とし、そのうち何かの閃きを待つのだろう。

 今の課題が文章を書くことであるならば、ここの中から、関連付けて何かアイデアを作って、何でもいい、物語でも評論でもエッセイでも書いていく。こうなると、三題噺に似てくるかもしれないが、一つの創造的な作業である。

 さらに、創造性の豊かさとは、さまざまなこの「気付き」や「閃き」を連携つけて、大きな創造に変えていく作業かもしれない。凡人は、強引に関連付けて話を作ることもできるかもしれない。しかし、話として通らない、つまらない、となる。

 いま、別役実さんの著作をよく読んでいる。彼の作品を、人によっては「ふざけている」、「どうせ、うそなんだろ」と取る向きもあるだろう。それはそれでいいし、そう思う人は気持ちが真っ直ぐなひとかもしれない。読み手としてももちろん楽しく読んでいける。私にとって極めて衝撃的なのは、書き手として「別役実」風なるものの真似事をしようと試みても、まったく歯が立たないということだ

 彼の著作、たとえば『さんずいづくし』でも『道具づくし』でも『当世・商売往来』でも、その創作力には驚かされる。何でもいい、ひとつの事柄に対し、さまざまな創作(うそもある)を練り上げ、時には笑いにする。これにはまったくの驚き以外なく、どうやってこのような創造ができるのか頭の仲を見てみたい。もちろん、演劇界でも先駆者、巨人と呼ばれているのだから、このくらいのことは簡単なのかもしれないが。

 私としては、書き手となるべく、自分の好きな文体をまねしようといま試みている。『別役実のコント教室』で、写生教育と模写教育を比較したくだりがある。彼は若い頃、画家を目指していたそうだ。それはさておき、「写生教育の場合、その人個人の知恵しか作品の中に出てこない。模写教育の中には、(中略)代々のお師匠さんの知恵というのがつたわっているはずなんです」との記述がある。この著作はコントを書くための教本であるが、写生教育と模写教育の比較は、文章を書くことにも敷衍して説明できるのではないかと思う。

 さて、このような感想文的なことを書いているが、ブログで人様の目に入る以上、人に読まれることを前提として、しかも自分は「俺はこんな難しい文章書けるんだ。頭がいいんだぞ。いろんなこと知ってるんだぞ」となってはならない。これは、よく言われることだが、すぐに読み手に看破される。つまり、嫌味の文章になる。「伝えたいこと」を正直に取り組むことだ。「伝えたいこと」が自分を良く見せたいことであれば、そうすればいいのだが。

 書き手に少しでも近づくためには、道のりが遠すぎることを思い知る毎日である。

作詞のこころ

 作詞家は何を発想の種としているのだろう。すばらしい作詞家はいっぱいいる。きっと、物語を持っているのだろうと思う。失恋でも、恋を成就した喜びでも、きっとそれを物語に変え持っているのだと想像する。それから、削り、削り、削り落として結晶のようなものが、歌詞として現れる。それが、事実ではないだろうか。

 まあ、どんな歌でもいい。昭和歌謡が好きな私だから、ここでは「君こそわが命」をだそう。あの川内康範の歌詞だ。

  あなたをほんとは さがしてた 
  汚れ汚れて 傷ついて
  死ぬまで逢えぬと 思っていたが
  けれどもようやく 虹を見た
  あなたのひとみに 虹を見た
  君こそ命 君こそ命 わが命

 これは1番だけ。この歌の味わいは、水原弘の歌唱力にも大きな助けがあるが、実際は川内康範がドブに堕ちた水原弘を救い出そうと、愛をもって作り出した歌だ。川内康範は、遊び人の水原弘が「虹を見る」、「君こそ命」などとは遠い存在と思っていただろう。

 だからこそ、それを描いた。水原弘は若くして死んだ。私より若くだ。一方、川内康範は90いくつまで生きた。晩年は「おふくろさん騒動」で騒がれた。
ここで言いたいのは、川内康範の愛だ。無償の愛を川内康範は説く。月光仮面からレインボーマンを経て日本むかし話まで、貫かれている。

 話が逸れた。作詞家のこころを語りたかったのだ。川内康範は脚本家であり作家である。世に出ている作詞家は、もちろん作詞家専業もいるのだろうが、多くはある思想や思いを遂げる媒体として作詞、いや歌に傾注したのではないかと想像するのだ。

 だから、作詞家になりたければ物語を書け!愛でもいい、憎しみでもいい。性欲、愛欲、酒も飲んでみろ、泥臭く生きてみろ!熱い思いを文字にしろ!これは自分に言っている言葉でもある。

長い文章と短い文章

 ここでいう文章の長さとは、一文の長さのこと。基本的な教えでは、主語述語は明確に、ねじれることなく歯切れよく、文章は短くとされている。これまでこれを実践してきた。「商業用日本語」という言葉をネットで最近見つけたが、この教えのわかりやすく巧みな表現だ。一気に読み下す新聞記事のような文体、体言止めももちろんあり。しかしである。乾いている、つやがない、とげとげしている。その上、誰が書いているかの個性がなく、むしろ、書き手を連想させないような文体ともいえる。手元に谷崎潤一郎と吉田健一の本があるので、さっと見開く。長い。吉田健一に関しては、読点も少なく、さらに内容も難解だ。その代わり、しっとりして角が取れて、文章全体を流れる連続性が感じられ、深みがあり、心地いい部分もある。もちろん、素人がまねしてもダメだ。文章の上達は、まずは「商業用日本語」の特徴を習得し、それから自分なりの文体を見出すべきであろう。

カンボジアに行った

 旅は日常を忘れさせる効用を持っている。人はその目的を果たすことを意識して実行しているのであって、驚きの眺望のように自らにとってプラスの感覚だけではなく、異臭のする雑踏に嫌悪の顔をしても、非日常を欲しているから旅に出る。旅には、カネと時間がかかるのは当たり前で、それを避けて通れないから、カネがあって暇な人の独占物のようだが、それは違って、いまは10万円もあれば海外に行けるし、2泊3日でも十分楽しめるのがいまのわが国だ。カネがないといっても、いい大人が「猿岩石」のマネをしてもみすぼらしいし汚いし、そのうえ危ないことだから「こがね」があればいい。何とか10万円だ。「よし行こう!」と思いつき、用意をするのがひどく面倒で、非日常は疲れるし、緊張するものだが、行って見ると何かを得て帰ってくるものだ。今回は、カンボジアのプノンペンとアンコールワット遺跡群。暑かった。たくさんの汗をかいてきた。すっきりした。


プノンペン市内(動画)


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プノンペン市内①



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プノンペン市内②


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スーパーカブ50


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アンコールワットの物売りの少年

10月上旬までお休みします

明日から国外に行きますので、10月上旬まで記事の更新はお休みします。

今回は、カラオケで好きな曲のひとつ「時代おくれ」を掲載します。

なお、歌詞の掲載が著作権の観点から問題があれば、削除するなど適切に対処いたします。


時代おくれ

作詞 阿久悠
作曲 森田公一


一日二杯の 酒を飲み
さかなは特に こだわらず
マイクが来たなら 微笑んで
十八番(おはこ)を一つ 歌うだけ

妻には涙を 見せないで
子供に愚痴を きかせずに
男の嘆きは ほろ酔いで
酒場の隅に 置いて行く

目立たぬように
はしゃがぬように
似合わぬことは 無理をせず
人の心を 見つめつづける
時代おくれの 男になりたい

不器用だけれど しらけずに
純粋だけど 野暮じゃなく
上手なお酒を 飲みながら
一年一度 酔っぱらう

昔の友には やさしくて
変わらぬ友と 信じ込み
あれこれ仕事も あるくせに
自分のことは 後にする

ねたまぬように
あせらぬように
飾った世界に 流されず
好きな誰かを 思いつづける
時代おくれの 男になりたい

港区・芝浦にある昭和の大衆酒場 「やまや」 ~なぜ、このような店が残っているのか~

1 店の概要

 大衆酒場「やまや」を訪れたのは、平成24年3月19日(月)の20時頃。場所は港区芝浦2丁目、最寄駅の都営浅草線泉岳寺駅からは徒歩10分、山手線品川駅・田町駅からは徒歩15分程にある。

 旧海岸通りに架かる高浜橋の橋詰に「バラック」のような建物が小さく佇む。店主は朝鮮半島出身の女性で、創業は昭和10年代という。ホルモンを安く出すのが最大の特徴で、4人座れるカウンターと、3つの小さなテーブル席がある。

 芝浦地区は近年、再開発が急速に進展し、高層マンションが林立する箇所もある。その新しく立派で美しい景観の中で、この「やまや」は周囲と比べて著しく不釣合いで非現代的な存在である。どのような背景でこの酒場が生まれ、そして今まで存続できたのか。地域の歴史、メニュー、訪れる客などを交えてまとめた。

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2 店の誕生から現在まで

 芝浦は三題噺で有名な「芝浜」の舞台でもある。新橋-横浜間に鉄道が敷かれた頃は、今の山手線は海に面した海岸線を走っており、明治時代までは遠浅の海岸が広がっていた。その海岸線も昭和初期から埋立てが始まり、海運業の施設や工場が立ち並ぶようになる。

 昭和11年、芝浦に東京市営の屠場と家畜市場が建設され、今でも品川駅港南口に東京都中央卸売市場食肉市場として存続している。大衆酒場「やまや」ができたのはこの頃になる。当時の日本人は牛肉の内臓を食べる習慣はなく、捨てられていたという。そこで、朝鮮半島から渡ってきた店主の姑が食肉市場から出される内臓(ホルモン)を高浜橋の橋詰で焼き始めた。ホルモンとは「抛るもの(=捨てるもの)」が転じてできた言葉である。それが、当時の港湾労働者たちに受け入れられ、次第に広まっていった。

 終戦後にはニコヨンと呼ばれた日雇い労働者が芝浦にあふれ、高度経済成長期には、仕事の終わった労働者が作業着のままで安価なホルモンを夜中まで焼いて飲んでいたそうだ。この頃「やまや」は最盛期を迎えたはずだ。再開発が本格的に始まるバブル期まで、芝浦は労働者で賑やかな街であり、隣接する山手線の内側の高輪や三田などとは別世界だったようだ。このような時代的背景とともに、現在まで約70年余り店は続いている。

3 メニュー

 ツマミは概して安い。もちろんホルモンが安い。センマイ刺し、レバー刺し、ハチノス、牛筋の煮込みが名物だ。店主によると、その昔は芝浦の食肉市場から直接仕入れ、捌いたばかりの内臓(ホルモン)にはほんのりぬくもりがあったらしい。牛筋の煮込みは下処理として24時間火にかけ、浮いた脂肪分は取り除き、残った肉だけに味をつけた手の込んだ一品だ。大盛りのセンマイ刺しは酢味噌とともにいただく。

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 酒は、ほとんどの客が一升瓶の金宮(きんみや)焼酎のボトルキープだ。酎ハイは、一杯210円の焼酎をレモン水で割るスタイル。生ビールはない。大瓶のビールが500円だ。厨房は狭く、客席からそのまま続いていて、客の中には、瓶ビールを冷蔵ケースから自分で取り出して飲むものまでいる。

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4 店に訪れる客たち

 集う客は常連がほとんどと思われる。店の片隅にピンク電話があり、予約が良く入る。客たちの会話、風貌から労働者が多数を占める。1人当たりの酒量も多いようで声の大きい酔客もいる。2人で9,000円も飲む男性客もいる。1人の客も多い。若い女性はまずいない。

 入りにくい、建物が古い、清潔感のない店に集う客は、日常を忘れさせ、酒を飲み憂さを晴らすのが目的のようだ。常連の客は気を使わず、格好つけずに飲むことができる。特筆すべきは、このような客を抱える店にしては、客の帰りが早いことである。これは、客の多くは芝浦で働き電車に乗って帰り、明日の朝早くから働き始めるからであろう。一方、芝浦の高層マンションに住む人はこの「汚い」大衆酒場には立ち寄らないのだろう。21:30頃には客が減り、22時以降には新たな客を入れず、22:30には店じまいとなる。

5 店の今後

 一般的には、橋のたもと(橋詰)は行政が管理する防災用の公共空地に位置づけられており、個人所有は認められていない。想像ではあるが、この「やまや」も港区の土地の不法占用である可能性は高く、様々な軋轢を生じながら今に至ったのであろう。違法建築物のため改築も認められず、結果的に昭和時代の「バラック」が残された。店主は多くを語らなかったが、立ち退きを強く求められていることが雑談の中でわかった。この春で店じまいとも語っていた。

6 まとめ

 大衆酒場「やまや」の周辺には今でも同様な朝鮮半島系の焼肉屋などが数件寄り集まっている。バブル期から芝浦は再開発が本格的に始まったが、工場や倉庫、運河やはしけなど、昔ながらの風景も少し残っている。その中でも、この高浜橋の橋詰に佇む大衆酒場「やまや」一帯の飲食店は、付近の風景から完全に浮き上がった存在である。単純な下町風情ではなく、ノスタルジックでもない、薄暗さを含んだ昭和の残像といえる。

 このような酒場がなぜ戦前から今まで存続できたのか。それは、昭和初期の埋立地という規制が曖昧な時代と場所が背景にあったうえに、行政所管の公共空地である橋のたもと(橋詰)が新しくできた。そこに住み着いた朝鮮半島から来た人々が、近くに建設された食肉市場で捨てられていた「ホルモン」を食べる文化を広めた。戦後、高度経済成長期にそこに集う労働者が多数いたことで、営業を存続することが可能となり立ち退きを拒み続けた。このような様々な要素が偶然にも重なり合い、店として今まで存続できたのではないか。これが大衆酒場「やまや」の歴史であると推察する。

高度経済成長時代がいい

 私は昭和43年生まれなので、バブルの頃は知っている。でも知らない高度経済成長時代が好きだ。あの高揚感がいい。その先駆けとなった昭和39年、10月1日に東海道新幹線を開業させ、その10日後に東京オリンピックを開催させる。汚い川は暗渠にし、首都高に大胆に配置する。なりふり構わず情熱でひた走る光景がいい。それを非難するつもりはない。国立競技場の記録映像を見ると、整然と並んだ入場行進に胸を打たれる。感動的だ。それから約25年後バブルがはじける。

 ある時、1950年代の米国を「アメリカが青春だった頃」と表現したものに出くわした。知りもしない時代、実際見たこともない世界。でもうまい表現だ。映画には美男美女があふれ、屈託のない娯楽大作、音楽も陽気で楽しませる。「どうだ!」と言わんばかりの物量、圧倒感。この国にかつて無差別爆撃、機銃掃射、さらに原爆を落とされても憧れる気持ちがわかる気がする。そしてベトナム戦争になると、急に影が出てくる。それはいいのだが陽と陰の落差を感じる。

 一方、フランス映画を見ると、個人主義という言葉がふさわしいか、私が無知なだけなのか、燃えたぎるるような圧倒感はない。意地悪で皮肉っぽいフランス人が「単純無垢な」米国文化をバカにする気も何となく解る。

 文化の比較やその時代を検証しようなどと考えたところで解りもしないが、繁栄していく過程は単純に良い「香り」がする。旬という言葉になるのかもしれない。組織でも個人でも国家でも上り調子の時は傍から見ていて気持ちよさを感じるみたいだ。私はかつて建設業に従事していたが、自分たちは汚い格好をして女性などには人気ないと思っていたが、奇特な人もいて汚れながらも精一杯働く姿が好きなんていう女性もいた。これは、山田洋次の映画に出てきそうな風景かもしれないが、そのような気持ちをとことん応援したい気持ちだ。

 中高年をネタにしている人気の漫談師が「人生、登ってもないのに下り坂」って言っていたが、実際の個人では高度成長時代にもこんなことが多いだろうとも思う。当時は公害や交通事故、凶悪犯罪が多く難しい世の中だったと思う。米国にしても、その頃の人々に将来黒人の大統領の出現を予想した人はいないだろう。人種差別は激しかっただろう。

 しかし、その時代を遠くから眺めるには、誠に勝手なことで、最大公約数的なものの見方、もっと言えば典型的なものの言い方でもいいと思う。三波春夫が歌うオリンピックと大阪万博の歌。そこ抜けに明るく何の憂いもなく歌う姿に見える。しかし彼はシベリア抑留した経験を持ち、多く友人をなくしたらしい。

 バブル崩壊から失われた10年、いや20年。後年の人はこの失われた時代をどのように捉えるのだろうか。そこにある歌、文化に親しみを持って受け止めてもらえるのだろうか。失われた時代といわれるように、人々の記憶から消え去るだろうか。何十年後、確かめられたらいいと思う。

吉村忍 「自分以外はバカ」の時代

 約10年前の記事ですが、印象に残っているのでアップします。

 2003年7月10日 朝日新聞朝刊


 確証はない。印象だけがある。けれど、ぼんやりしたその感じが気になっている。

 そういうことを記しておきたい。この国の低迷はまだ始まったばかり、これから本格的に陥没していくのだろうということ。その暗鬱(あんうつ)な予感についてである。

 ここ数ヶ月、私は毎週のように各地を旅行している。取材や講演だったりするのだが、行く先々に沈んだ光景が広がっている。高齢化と過疎が深いしわとなって刻み込まれた町や村。かしいだ空き家の連なり。色褪せた飲み屋小路に放置された廃車や自転車。商店街に面したスーパーやデパートをのぞいても、買い物客はまばら。どの町に行っても、廃業した店々が錆びついた扉を下ろしたままの、通称「シャッター通り」がある。

 これらの光景自体は、もう珍しくない。バブルが崩壊したあとの不況のせい、と説明もついている。失われた十余年、そろそろ景気も上向いてほしい、いや、上向くだろう、と楽観する向きもある。

 そうなってほしい、と私も思う。だが、けっしてそうはならないだろう、という思いに圧倒される。たぶん問題は、不況ではない。不況が原因と思っているうちに、じつは私たちはもっと大きなものを失ってきたような気がする。そして、その喪失の意味をうまく自覚できていないのではあるまいか。

 数年来、私はこの国から地域社会と企業社会が蒸発し、人々がばらばらに暮らすようになった現実のあれこれを指摘してきた。言うまでもなくこれらは、戦後半世紀、良くも悪くもこの国を経済大国に向けて駆動してきた両輪だった。それがなくなったとき、行政も企業も混乱に陥り、習慣は旧習となり、旧習は旧弊となって、数々の不祥事が噴き出した。不可解な犯罪が多発したのも、地域と企業の双方の磁力が希薄化した地域でだった。

 しかし、二十一世紀の初頭、不景気風の吹きすさぶこの国で個々ばらばらに暮らしはじめた人々の声に耳を傾けてみればよい。取引先や同僚のものわかりが悪い、とけなすビジネスマンの言葉。友達や先輩後輩の失敗をあげつらう高校生たちのやりとり。ファミレスの窓際のテーブルに陣取って、幼稚園や学校をあしざまに言いつのる母親同士の会話。相手の言い分をこき下ろすだけのテレビの論客や政治家たち・・・・・・。

 ここには共通する、きわだった特徴がある。はしたない言い方をすれば、どれもこれもが「自分以外はみんなバカ」と言っている。自分だけがよくわかっていて、その他大勢は無知で愚かで、だから世の中うまくいかないのだ、と言わんばかりの態度がむんむんしている。私にはそう感じられる。

 高度産業社会を経験した人々は、こういう心性を抱え込むのかもしれない。そこでは、だれもが何かの専門家として学び、働き、生きている。金融の、製造の、営業の、行政の、政治の、そうでなかったら消費のプロだ、あるいはそのつもりだ。かぎりなく細分化した一分野に精通しているという自負はだいじだが、それがそのまま周囲や世間に対する態度となる。

 「大衆」という、自分自身もそこにはいっているのかいないのかが曖昧な、使いにくい言葉をあえて使えば、いまこの国は「自分以外はみんなバカ」と思っている大衆によって構成されているのではないか、というのが方々歩いてきた私の観察である。これは「大衆文化」を前向きにとらえた敗戦直後とも、「赤信号みんなで渡れば怖くない」とばかりに大衆を勢いづかせた高度成長期からバブルにかけての時期ともちがう、新しい現実である。

 この現実はやっかいだ。自分以外はみんなバカなのだから、私たちはだれかに同情したり共感することもなく、まして褒めることもしない。こちらをバカだと思っている他人は他人で、私のことを心配したり、励ましてくれることもない。つまり私たちは、横にいる他者を内側から理解したり、つながっていく契機を持たないまま日々を送りはじめた----それがこの十余年間に起きた、もっとも重苦しい事態ではないだろうか。

 不況、テロ、戦争、北朝鮮。どれもが現在のこの国が直面する難問ではあるが、自分以外はみんなバカ、と思い込む心性はそれぞれの問題を外側から、まるで大仕掛けな見世物としてしか見ないだろう。そこに内在する歴史や矛盾を切り捨て、自己の責任や葛藤を忘れて、威勢よく断じるだけの態度が露骨となる。

 そこに私は、この国がこれからいっそう深く沈み込んでいく凶兆を読み取っている。
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