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港区・芝浦にある昭和の大衆酒場 「やまや」 ~なぜ、このような店が残っているのか~

1 店の概要

 大衆酒場「やまや」を訪れたのは、平成24年3月19日(月)の20時頃。場所は港区芝浦2丁目、最寄駅の都営浅草線泉岳寺駅からは徒歩10分、山手線品川駅・田町駅からは徒歩15分程にある。

 旧海岸通りに架かる高浜橋の橋詰に「バラック」のような建物が小さく佇む。店主は朝鮮半島出身の女性で、創業は昭和10年代という。ホルモンを安く出すのが最大の特徴で、4人座れるカウンターと、3つの小さなテーブル席がある。

 芝浦地区は近年、再開発が急速に進展し、高層マンションが林立する箇所もある。その新しく立派で美しい景観の中で、この「やまや」は周囲と比べて著しく不釣合いで非現代的な存在である。どのような背景でこの酒場が生まれ、そして今まで存続できたのか。地域の歴史、メニュー、訪れる客などを交えてまとめた。

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2 店の誕生から現在まで

 芝浦は三題噺で有名な「芝浜」の舞台でもある。新橋-横浜間に鉄道が敷かれた頃は、今の山手線は海に面した海岸線を走っており、明治時代までは遠浅の海岸が広がっていた。その海岸線も昭和初期から埋立てが始まり、海運業の施設や工場が立ち並ぶようになる。

 昭和11年、芝浦に東京市営の屠場と家畜市場が建設され、今でも品川駅港南口に東京都中央卸売市場食肉市場として存続している。大衆酒場「やまや」ができたのはこの頃になる。当時の日本人は牛肉の内臓を食べる習慣はなく、捨てられていたという。そこで、朝鮮半島から渡ってきた店主の姑が食肉市場から出される内臓(ホルモン)を高浜橋の橋詰で焼き始めた。ホルモンとは「抛るもの(=捨てるもの)」が転じてできた言葉である。それが、当時の港湾労働者たちに受け入れられ、次第に広まっていった。

 終戦後にはニコヨンと呼ばれた日雇い労働者が芝浦にあふれ、高度経済成長期には、仕事の終わった労働者が作業着のままで安価なホルモンを夜中まで焼いて飲んでいたそうだ。この頃「やまや」は最盛期を迎えたはずだ。再開発が本格的に始まるバブル期まで、芝浦は労働者で賑やかな街であり、隣接する山手線の内側の高輪や三田などとは別世界だったようだ。このような時代的背景とともに、現在まで約70年余り店は続いている。

3 メニュー

 ツマミは概して安い。もちろんホルモンが安い。センマイ刺し、レバー刺し、ハチノス、牛筋の煮込みが名物だ。店主によると、その昔は芝浦の食肉市場から直接仕入れ、捌いたばかりの内臓(ホルモン)にはほんのりぬくもりがあったらしい。牛筋の煮込みは下処理として24時間火にかけ、浮いた脂肪分は取り除き、残った肉だけに味をつけた手の込んだ一品だ。大盛りのセンマイ刺しは酢味噌とともにいただく。

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 酒は、ほとんどの客が一升瓶の金宮(きんみや)焼酎のボトルキープだ。酎ハイは、一杯210円の焼酎をレモン水で割るスタイル。生ビールはない。大瓶のビールが500円だ。厨房は狭く、客席からそのまま続いていて、客の中には、瓶ビールを冷蔵ケースから自分で取り出して飲むものまでいる。

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4 店に訪れる客たち

 集う客は常連がほとんどと思われる。店の片隅にピンク電話があり、予約が良く入る。客たちの会話、風貌から労働者が多数を占める。1人当たりの酒量も多いようで声の大きい酔客もいる。2人で9,000円も飲む男性客もいる。1人の客も多い。若い女性はまずいない。

 入りにくい、建物が古い、清潔感のない店に集う客は、日常を忘れさせ、酒を飲み憂さを晴らすのが目的のようだ。常連の客は気を使わず、格好つけずに飲むことができる。特筆すべきは、このような客を抱える店にしては、客の帰りが早いことである。これは、客の多くは芝浦で働き電車に乗って帰り、明日の朝早くから働き始めるからであろう。一方、芝浦の高層マンションに住む人はこの「汚い」大衆酒場には立ち寄らないのだろう。21:30頃には客が減り、22時以降には新たな客を入れず、22:30には店じまいとなる。

5 店の今後

 一般的には、橋のたもと(橋詰)は行政が管理する防災用の公共空地に位置づけられており、個人所有は認められていない。想像ではあるが、この「やまや」も港区の土地の不法占用である可能性は高く、様々な軋轢を生じながら今に至ったのであろう。違法建築物のため改築も認められず、結果的に昭和時代の「バラック」が残された。店主は多くを語らなかったが、立ち退きを強く求められていることが雑談の中でわかった。この春で店じまいとも語っていた。

6 まとめ

 大衆酒場「やまや」の周辺には今でも同様な朝鮮半島系の焼肉屋などが数件寄り集まっている。バブル期から芝浦は再開発が本格的に始まったが、工場や倉庫、運河やはしけなど、昔ながらの風景も少し残っている。その中でも、この高浜橋の橋詰に佇む大衆酒場「やまや」一帯の飲食店は、付近の風景から完全に浮き上がった存在である。単純な下町風情ではなく、ノスタルジックでもない、薄暗さを含んだ昭和の残像といえる。

 このような酒場がなぜ戦前から今まで存続できたのか。それは、昭和初期の埋立地という規制が曖昧な時代と場所が背景にあったうえに、行政所管の公共空地である橋のたもと(橋詰)が新しくできた。そこに住み着いた朝鮮半島から来た人々が、近くに建設された食肉市場で捨てられていた「ホルモン」を食べる文化を広めた。戦後、高度経済成長期にそこに集う労働者が多数いたことで、営業を存続することが可能となり立ち退きを拒み続けた。このような様々な要素が偶然にも重なり合い、店として今まで存続できたのではないか。これが大衆酒場「やまや」の歴史であると推察する。
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