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浜松町の小便小僧(フィクション)

 山手線の浜松町駅のホームにある小便小僧。羽田に行くときたまたま見かけたが驚きである。水の勢いが強く、あれではまるで「放水」である。しかも、中断もせず連続しての「大放水」だ。小さな男の子の小便ではない。これはやり過ぎではないか。これでは小僧が気の毒である。

 本気で心配になり、駅事務室に行ったところ、なぜか誠意ある対応をしてくれない。そこで事情に詳しい関係者から話を聞き、対策を具申したいとの思いに達した。後に幸いにも国鉄OBの方と出会い、彼は小便小僧の今に至るいきさつを親切に教えてくれたのである。



 この小便小僧、昭和30年代の国鉄時代からホームに立ち、当時は「小便」していなかった。ところが、昭和39年の東海道新幹線開通で事情が変わる。山手線と並行して走る新幹線建設に関わった技師長が、たまたま浜松町駅に立ち寄ったとき、この「小便」しない小便小僧を快く思わなかったのだ。誇り高い国鉄の技術者が放って置くわけがない。国鉄の「技術」を結集して極めてリアルな小便小僧の「小便」装置を作り上げたのだ。

 まず始めに一定量を均一に10秒間放水し、後の5秒でだんだんと量を絞っていき、さらに5秒で雫が滴り落ちるようにして止める合計20秒の放水装置だ。これを1分間隔、始発から終電まで作動させた。当時、人々は科学技術に対し大きな期待を持っていた時代である。この精巧な小便小僧は大変評判良かった。

 しかし、高度経済成長時代が陰りを見せ、さらに国鉄は莫大な赤字で苦しみ始める。そして小便小僧にも合理化の波が及んできたのだ。そもそも小便小僧は電車を動かすことと関係ない不要なものだ。装置を作動させるために必要な電気や水道の費用は節約すべきとなった。そこで、考案されたのが病院で使われている点滴装置を応用した雫の制御装置である。

 小便小僧の足元にダイヤル式のつまみを設け、「吐出口」から滴り落ちる雫の間隔を制御できる装置である。ダイヤルで1滴1秒間隔から15秒間隔まで15段階で調整できる。駅では3秒間隔で運用した。これで、電気代と水道代は従来の10%まで縮減でき、申し訳なさそうに立っていた小便小僧もいきいきとホームで乗降客を見つめることができたのである。

 しかし、また試練がくるのである。国鉄民営化である。お客様を大切にするJRになった途端、乗降客から「小便をチビっているのではないか、みっともない」、さらには「切れの悪い小便など見たくない」などの声がJR東日本本社の広報部に寄せられ、浜松町駅としては真剣に対応せざるを得なくなったのだ。

 浜松町駅は、羽田空港に通じる東京モノレールの始発駅であり、東京さらには我が国の玄関口である。山手線における駅の重要度では上位に位置する。JRになって初めて赴任した若い駅長は、この小便小僧の対応について現場と本社の板ばさみに合い、体調を崩した後に八高線の駅に異動した。

 というのも、民営化前後に組合運動は先鋭化し、「雫の一滴小さいが 一人ひとりの労働者 滴り積もりて淵となる ちりも積もれば山となる」とのスローガンの下、小便小僧は合理化反対運動の象徴的存在となっていたのである。小僧の額には「団結」の文字を染め抜いた赤い鉢巻がたなびいていた。

 事態を収拾しようと本社は、蒸気機関車の機関助士出身のベテラン駅長を新任に据え、組合を懐柔するとともに、時代はバブルということもあり、「景気よくやろうじゃないか!」との方針を立て、点滴装置を撤去し、水道管を直結した小便小僧にしたのである。

 これが、いまの小便小僧の姿になっている。もう20年前の話である。いまは台座に「今日もお勤めごくろうさまです!がんばろう日本!」と書いたステッカーが貼られている。



 この逸話から、小便小僧を「時代に翻弄される子ども」、「いつも犠牲になるのは弱いもの」とし、教訓めいたものを引き出したいなどとは思っていない。知りたいのは、浜松町のホームに立ち続けて数十年、小便小僧にとっていつの時代が一番つらかったのかである。小便小僧に尋ねても、お地蔵さんのように黙っているだけで答えてくれない。

 想像するに、つらかったのは点滴装置を付けられた頃ではないかということである。小便小僧は「小便」をしてこその存在であり、合理化に名の下に行った「節約」により、始発から終電まで「吐出口」から雫が滴り落ちるような状況に追い込まれたことは、耐え難いものがあったろう。しかも、小僧とはいえ男の子である。男としてのプライドにも傷をつけただろう。

 そもそも「小便」に限らず、雫が滴り落ちるような状態の多くは、前後の時間で流れは連続から非連続へ、または逆の変化を起こしている。例えば、水道の蛇口をだんだん閉めたとき、開けたときを想像すればわかりやすい。つまり、その変化の間隙に一瞬見られるのが滴るという現象であり、不安定な状態なのである。ゆえに、観察する側からすれば、不自然なものに映りやすいのである。

 不安定な状態を表す証拠として、小便小僧に取り付けられた点滴装置のダイヤルがある。装置は、1滴1秒間隔から15秒間隔まで15段階で調整できるが、1秒以下や15秒以上はない。これは、1秒以下では、水の流れは連続になり、15秒以上では、非連続となるからである。

 さらに言える事は、観察する側からすれば、滴り落ちる雫は「止まる」のか、または何かが「始まる」のかを暗示するもの、つまりどちらかをその後期待させることを意味するのである。今から「小便」するのかしないのかはっきりしろということである。小便小僧にしてみれば、点滴装置に制御され、周囲からの期待を背くことは、つらかったに違いない。

 しかしである。小便小僧が周囲の期待に背くことに快感を覚え、自分を観察するのは山手線の乗降客であり、一瞬しか見られていないことをきちんと意識していれば、また別の話になるのである。

 連続と非連続の変化の間隙に見られる雫の滴る一瞬の儚さ、それゆえに持つ輝きを表現することを、実は満足していたのかもしれない。小便小僧が日本製なのか、本家のベルギー製であるのかは不明だが、この国の人々は、きらびやかで永遠に続くものよりも、寂しくも儚く消えてしまういわば「うたかた」のようなものを愛でる文化を持っていることを知っていた可能性は排除できないのだ。

 だからこそ、このような小便小僧の思いに配慮してあげようと、滴り落ちる滴を利用して「水琴窟」を小僧の台座に設置しようとの動きが過去にあったのだ。「水琴窟」とは、我が国にしかない特有の文化で、江戸時代に土中などに瓶(かめ)を設置し空洞を作り、そこに滴る水を反響させて琴の音色を作り出す仕組みである。しかし、電車が往来する駅のホームであの優雅な音は聞こえないので、実現はしなかったのだが・・・。



 いまの小便小僧の「小便」は水道管を直結した力強い定常流である。時間に関係なく状態が変わらない流れである。もはや、間断のある放水装置や点滴装置をつけている頃のように、「吐出口」から滴り落ちる雫をみることはできない。しかし元気よく「放水」するのは男の子らしくいい。構造が簡単なため、今後もきっと故障もなく順調に「放水」し続けるだろう。

 もし、滴り落ちる雫を見たい場合は、終電後に元栓を閉じるとき、駅員に注意されるまで駅のホームに残ればいいのだ。この小便小僧、次はどんな時代を生きていくのだろうか。
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