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文章を創造することの難しさ

 読むことが好きな人は、そのうち書きたいと思うようになるだろう。私もその一人だ。しかし、読むのと書くのはまったく別。まず方向が違う、逆方向となる。そして、書き手となれば、創造性が必要となる。単に創造性といっても、これは雲をつかむようなものとまではいかないまでも、凡人が想像し浮かび上がった一つひとつの「気付き」や「閃き」はとても小さいことである。もちろん、小さなものでも苦労するのであるが。

 ジェームス・W・ヤングに『アイデアの作り方』という著書がある。広告系の仕事をされる方には必読書と聞いたことがあるが、もっと普遍的である。解説に、もう亡くなった竹内均(地球物理学者、科学雑誌ニュートンの元編集長)が寄せていることがそのことを証明している。この『アイデアの作り方』によれば、「アイデアは新しい組み合わせである」という。確かにそうなのだろう。

 たとえば、今この文章を打っている「キーボード」と先ほど食べた「柿」を組み合わせるのだろう。「キーボード」から連想するものは、「パソコン」、「マウス」、「アルファベット」・・・、「柿」から連想するのは、「パーシモンのヘッド」、「小田急線の柿生駅」、「柿食えば 鐘が鳴るなり 法隆寺」・・・である。その核となる事柄から連想されるもの、背景を頭の中で渾然一体とし、そのうち何かの閃きを待つのだろう。

 今の課題が文章を書くことであるならば、ここの中から、関連付けて何かアイデアを作って、何でもいい、物語でも評論でもエッセイでも書いていく。こうなると、三題噺に似てくるかもしれないが、一つの創造的な作業である。

 さらに、創造性の豊かさとは、さまざまなこの「気付き」や「閃き」を連携つけて、大きな創造に変えていく作業かもしれない。凡人は、強引に関連付けて話を作ることもできるかもしれない。しかし、話として通らない、つまらない、となる。

 いま、別役実さんの著作をよく読んでいる。彼の作品を、人によっては「ふざけている」、「どうせ、うそなんだろ」と取る向きもあるだろう。それはそれでいいし、そう思う人は気持ちが真っ直ぐなひとかもしれない。読み手としてももちろん楽しく読んでいける。私にとって極めて衝撃的なのは、書き手として「別役実」風なるものの真似事をしようと試みても、まったく歯が立たないということだ

 彼の著作、たとえば『さんずいづくし』でも『道具づくし』でも『当世・商売往来』でも、その創作力には驚かされる。何でもいい、ひとつの事柄に対し、さまざまな創作(うそもある)を練り上げ、時には笑いにする。これにはまったくの驚き以外なく、どうやってこのような創造ができるのか頭の仲を見てみたい。もちろん、演劇界でも先駆者、巨人と呼ばれているのだから、このくらいのことは簡単なのかもしれないが。

 私としては、書き手となるべく、自分の好きな文体をまねしようといま試みている。『別役実のコント教室』で、写生教育と模写教育を比較したくだりがある。彼は若い頃、画家を目指していたそうだ。それはさておき、「写生教育の場合、その人個人の知恵しか作品の中に出てこない。模写教育の中には、(中略)代々のお師匠さんの知恵というのがつたわっているはずなんです」との記述がある。この著作はコントを書くための教本であるが、写生教育と模写教育の比較は、文章を書くことにも敷衍して説明できるのではないかと思う。

 さて、このような感想文的なことを書いているが、ブログで人様の目に入る以上、人に読まれることを前提として、しかも自分は「俺はこんな難しい文章書けるんだ。頭がいいんだぞ。いろんなこと知ってるんだぞ」となってはならない。これは、よく言われることだが、すぐに読み手に看破される。つまり、嫌味の文章になる。「伝えたいこと」を正直に取り組むことだ。「伝えたいこと」が自分を良く見せたいことであれば、そうすればいいのだが。

 書き手に少しでも近づくためには、道のりが遠すぎることを思い知る毎日である。

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