SSブログ

浜松町の小便小僧(フィクション)

 山手線の浜松町駅のホームにある小便小僧。羽田に行くときたまたま見かけたが驚きである。水の勢いが強く、あれではまるで「放水」である。しかも、中断もせず連続しての「大放水」だ。小さな男の子の小便ではない。これはやり過ぎではないか。これでは小僧が気の毒である。

 本気で心配になり、駅事務室に行ったところ、なぜか誠意ある対応をしてくれない。そこで事情に詳しい関係者から話を聞き、対策を具申したいとの思いに達した。後に幸いにも国鉄OBの方と出会い、彼は小便小僧の今に至るいきさつを親切に教えてくれたのである。



 この小便小僧、昭和30年代の国鉄時代からホームに立ち、当時は「小便」していなかった。ところが、昭和39年の東海道新幹線開通で事情が変わる。山手線と並行して走る新幹線建設に関わった技師長が、たまたま浜松町駅に立ち寄ったとき、この「小便」しない小便小僧を快く思わなかったのだ。誇り高い国鉄の技術者が放って置くわけがない。国鉄の「技術」を結集して極めてリアルな小便小僧の「小便」装置を作り上げたのだ。

 まず始めに一定量を均一に10秒間放水し、後の5秒でだんだんと量を絞っていき、さらに5秒で雫が滴り落ちるようにして止める合計20秒の放水装置だ。これを1分間隔、始発から終電まで作動させた。当時、人々は科学技術に対し大きな期待を持っていた時代である。この精巧な小便小僧は大変評判良かった。

 しかし、高度経済成長時代が陰りを見せ、さらに国鉄は莫大な赤字で苦しみ始める。そして小便小僧にも合理化の波が及んできたのだ。そもそも小便小僧は電車を動かすことと関係ない不要なものだ。装置を作動させるために必要な電気や水道の費用は節約すべきとなった。そこで、考案されたのが病院で使われている点滴装置を応用した雫の制御装置である。

 小便小僧の足元にダイヤル式のつまみを設け、「吐出口」から滴り落ちる雫の間隔を制御できる装置である。ダイヤルで1滴1秒間隔から15秒間隔まで15段階で調整できる。駅では3秒間隔で運用した。これで、電気代と水道代は従来の10%まで縮減でき、申し訳なさそうに立っていた小便小僧もいきいきとホームで乗降客を見つめることができたのである。

 しかし、また試練がくるのである。国鉄民営化である。お客様を大切にするJRになった途端、乗降客から「小便をチビっているのではないか、みっともない」、さらには「切れの悪い小便など見たくない」などの声がJR東日本本社の広報部に寄せられ、浜松町駅としては真剣に対応せざるを得なくなったのだ。

 浜松町駅は、羽田空港に通じる東京モノレールの始発駅であり、東京さらには我が国の玄関口である。山手線における駅の重要度では上位に位置する。JRになって初めて赴任した若い駅長は、この小便小僧の対応について現場と本社の板ばさみに合い、体調を崩した後に八高線の駅に異動した。

 というのも、民営化前後に組合運動は先鋭化し、「雫の一滴小さいが 一人ひとりの労働者 滴り積もりて淵となる ちりも積もれば山となる」とのスローガンの下、小便小僧は合理化反対運動の象徴的存在となっていたのである。小僧の額には「団結」の文字を染め抜いた赤い鉢巻がたなびいていた。

 事態を収拾しようと本社は、蒸気機関車の機関助士出身のベテラン駅長を新任に据え、組合を懐柔するとともに、時代はバブルということもあり、「景気よくやろうじゃないか!」との方針を立て、点滴装置を撤去し、水道管を直結した小便小僧にしたのである。

 これが、いまの小便小僧の姿になっている。もう20年前の話である。いまは台座に「今日もお勤めごくろうさまです!がんばろう日本!」と書いたステッカーが貼られている。



 この逸話から、小便小僧を「時代に翻弄される子ども」、「いつも犠牲になるのは弱いもの」とし、教訓めいたものを引き出したいなどとは思っていない。知りたいのは、浜松町のホームに立ち続けて数十年、小便小僧にとっていつの時代が一番つらかったのかである。小便小僧に尋ねても、お地蔵さんのように黙っているだけで答えてくれない。

 想像するに、つらかったのは点滴装置を付けられた頃ではないかということである。小便小僧は「小便」をしてこその存在であり、合理化に名の下に行った「節約」により、始発から終電まで「吐出口」から雫が滴り落ちるような状況に追い込まれたことは、耐え難いものがあったろう。しかも、小僧とはいえ男の子である。男としてのプライドにも傷をつけただろう。

 そもそも「小便」に限らず、雫が滴り落ちるような状態の多くは、前後の時間で流れは連続から非連続へ、または逆の変化を起こしている。例えば、水道の蛇口をだんだん閉めたとき、開けたときを想像すればわかりやすい。つまり、その変化の間隙に一瞬見られるのが滴るという現象であり、不安定な状態なのである。ゆえに、観察する側からすれば、不自然なものに映りやすいのである。

 不安定な状態を表す証拠として、小便小僧に取り付けられた点滴装置のダイヤルがある。装置は、1滴1秒間隔から15秒間隔まで15段階で調整できるが、1秒以下や15秒以上はない。これは、1秒以下では、水の流れは連続になり、15秒以上では、非連続となるからである。

 さらに言える事は、観察する側からすれば、滴り落ちる雫は「止まる」のか、または何かが「始まる」のかを暗示するもの、つまりどちらかをその後期待させることを意味するのである。今から「小便」するのかしないのかはっきりしろということである。小便小僧にしてみれば、点滴装置に制御され、周囲からの期待を背くことは、つらかったに違いない。

 しかしである。小便小僧が周囲の期待に背くことに快感を覚え、自分を観察するのは山手線の乗降客であり、一瞬しか見られていないことをきちんと意識していれば、また別の話になるのである。

 連続と非連続の変化の間隙に見られる雫の滴る一瞬の儚さ、それゆえに持つ輝きを表現することを、実は満足していたのかもしれない。小便小僧が日本製なのか、本家のベルギー製であるのかは不明だが、この国の人々は、きらびやかで永遠に続くものよりも、寂しくも儚く消えてしまういわば「うたかた」のようなものを愛でる文化を持っていることを知っていた可能性は排除できないのだ。

 だからこそ、このような小便小僧の思いに配慮してあげようと、滴り落ちる滴を利用して「水琴窟」を小僧の台座に設置しようとの動きが過去にあったのだ。「水琴窟」とは、我が国にしかない特有の文化で、江戸時代に土中などに瓶(かめ)を設置し空洞を作り、そこに滴る水を反響させて琴の音色を作り出す仕組みである。しかし、電車が往来する駅のホームであの優雅な音は聞こえないので、実現はしなかったのだが・・・。



 いまの小便小僧の「小便」は水道管を直結した力強い定常流である。時間に関係なく状態が変わらない流れである。もはや、間断のある放水装置や点滴装置をつけている頃のように、「吐出口」から滴り落ちる雫をみることはできない。しかし元気よく「放水」するのは男の子らしくいい。構造が簡単なため、今後もきっと故障もなく順調に「放水」し続けるだろう。

 もし、滴り落ちる雫を見たい場合は、終電後に元栓を閉じるとき、駅員に注意されるまで駅のホームに残ればいいのだ。この小便小僧、次はどんな時代を生きていくのだろうか。

時代の答えを見つけるために

 今の時代に課せられた答えや目標を見出すには、皆が知恵を出し合い、ぶつけ合い、組み合わせ、摺り合せていくことは確かに意義深い。仕組みづくりや、その風土を醸成することも必要だ。

 それでは、なぜ今は答えの見つからない時代なのか。難しい時代なのか。それは、我が国の経済や社会が高みに達し、多くの人々が現状に満足していることではないだろうか。目標を掲げ実践することは、理想と現実の乖離を埋めるための作業に他ならない。理想がないから目標がもてないのではないか。

 1年前の平成23年3月11日に発生した東日本大震災。被災者の支援に汗をかく人々、津波から賢明な判断で身を守った少年たち。そこには生存を懸けた「答え」があった。危機感があった。一方で、我が国全体を見渡した場合、そのような危機感は薄い。首都圏の人々は帰宅ができない、節電を強いられた程度のことであった。「がんばろう」という聞こえの良い言葉に負ぶさっていないだろうか。我々は被災地の辛苦を深いところで共有するまでにはまだ至っていない。

 しかし、我々はいまの生活が永遠に続くとも思っていない。漠とした不安を持っている。原発に代表される高度な科学技術の取扱い、高齢化する社会、予想のつかない周辺諸国の動きなど、この震災が我々の社会のあり方を議論するきっかけになったことは間違いない。そのために必要な方向性を考えてみたい。

 第一には、まず知恵を出し続けることである。今抱えている課題の難しさを殊更に強調し、考えることから逃避してはならない。我々はこの今しか目撃も行動もできない。それ故に、絶対的な時間である今を「激動の時代」、「歴史の変換点」と表現することが頻繁にこれまで行われてきた。今を歴史の中で特殊で難解なものと考えがちだ。今の時代に歴史的な位置づけを最終的にするのは我々ではなく、後世の人々が行うものであることを認識する必要がある。

 第二には、極端に走らない視点を持つことである。現状を全面的に否定して大転換を図るのではなく、新しい知恵と現状の「摺り合わせ」が大切である。例えば、「物質的な豊かさよりも精神的な豊かさ」という考え方がある。しかし、豊かな経済活動を通じて精神は豊かになる側面もある。歴史の中で人々に影響を及ぼした思想や文化の多くは、経済的に発展した地域で育まれた事実がある。高度に発展し利便性を発揮する科学技術を、もはや捨てることも後戻りさせることも現実的にはできない。

 第三には、諦観を持つことである。我々は震災を通じ、圧倒的な力を持つ自然の前に立つ砂上の楼閣に住んでいることを改めて実感した。いつ丸裸にされても仕方ない覚悟が必要だ。これはペシミズム(厭世主義)やニヒリズム(虚無主義)ではない「積極的なあきらめ」だ。このことが、我々の精神的な活動の中にも影響を及ぼし新しい知恵も出る。もちろん、国土建設や防災の新たなあり方に結びつくことになる。

 五木寛之は『下山の思想』の中で「下山では、安全に、そして優雅に、出発点にもどり、いつかふたたび次の山頂をめざす」と言っている。我々は、これから違う形の山を登っていくのだろうと思う。我々はどのような山を探すべきか考え続け、知恵を出し合い融合し、それが歴史に記録されていくのだろう。

被災地をたずねて

 平成23年3月11日、東日本大震災が発生した。私は先日、被災地の宮城県石巻市を訪れた。東京人が持っている東北のイメージはだいたい暗いだろう。海沿いの街なら、冬には荒れた海に雪のすだれができ、岩に波が砕け散っている。カラオケで演歌が流れた時、画面に出るような風景だ。しかし、東北の太平洋沿いの街はそのイメージと少し異なる。冬には北風が吹くものの乾いていて、雪は多くない。冬の海はあまり荒れない。

 被災地に入る。見えるものは、更地、粉塵、水溜り、献花、黒い大地、色は無くモノトーンだ。主を失った車はさびて色を失っている。私にはすぐに既視観がよぎった。関東大震災、東京大空襲の後を記録した白黒写真だ。しかしすぐに否定した。この地は火によって焼き尽くされた跡ではなく、黒く冷たい海水によって流されたのだ。ここには熱さはない。しばらく佇んでいると、乾いた北風が寒さに追い討ちをかけてくる。

 聞こえるのは、遠くで重機とダンプが行きかう音だけだ。静寂が虚無感をあおる。地面を触れば、湿って重い砂だ。貝が混じり潮のにおいがする。砂紋が水の流れの大きかったこと語っている。人の作ったものは壊れ、無くなっていく。万物は無常といってしまえばそれまでだが、自然は気まぐれで、残酷だ。

 東京に戻ったいま、晴れた日には被災地も東京のように澄み切った空があるだろうと想像する。年が明け、被災地も一年で一番寒い季節を迎えた。私は今でも、東京に雪が降ると日常とは異なる風景に高揚する。それは、立ち向かう街を雪が白く覆い隠し、あたかも現実逃避できたと思うからかもしれない。被災地にもやわらかい慈しみの雪が降って欲しい。津波にえぐりとられた地肌をそっと静かに癒して欲しい。隠して欲しい。しかしこれはメルヘンに過ぎない。街は戦っているのだ。

 春は来る。麦は冬の間、深い雪のなかでじっと我慢し、春を待つそうだ。桜も、冬のうちに花びらの色素を作り、春あのような花を咲かせるそうだ。今度来る春には、暖かい若葉や花の色で傷んだ被災地の地肌を包んで欲しい。

 これから復興事業が本格化し、被災地の風景は以前と大きく変わるだろう。サザンオールスターズに津波という歌がある。恋愛の気持ちを津波に例えている歌なので、今回の震災がテーマではない。それならば、誰かがきっと復興した被災地の風景を歌い、新しい東北のイメージを築いて欲しい。

「秋の虫」の俳句

まだ夜も暑いですが、外は虫の音も聞こえるようになってきました。

赤塚不二夫『天才バカボン ハイハイな俳句で電報をうってきた』に、「秋の虫」についての俳句があります。それぞれの登場人物の性格ならではの秀句です。

■ バカボンのパパ

リンリンと よびリンおしてる 秋の虫

■ バカボン

コロコロと ころがってるよ 秋の虫

■ ハジメ

風鈴も やんでききいる 秋の虫
秋の虫 さりし夏の日 おってなく

したたり草(フィクション)

 昨年、英国の学術雑誌『サイエンス』(*1)に、中国の国家植物研究所の特別班が四川省のチベットに近い山間部で絶滅したと思われた幻の「滴苔草」(中国名)を発見し、人工栽培に成功したとの論文が掲載された。このことで、画期的なタンパク質の合成に展望が開けたとしている。

 「滴苔草」は、岩盤などから染み出る極めて清浄な水に生育する植物で、コケ類とは異なる。青緑の多年草で、夏に小さな黄色い花を咲かせる。夜間わずかに光ることもり、香りを放つものもある。この特徴と我が国で江戸時代に絶滅したとされる「したたり草」が酷似していることが、昨年から文献調査によって指摘されていた。そして、主に植物学の立場から研究が進められ、極めて近い種類であることが最近の研究でほぼ確実となってきた。

 四川省から数千キロも遠く離れる我が国でいま、植物学者ではなく民俗学者が最もこの発見に沸いている。それは、いまでは見ることができない「したたり草」は江戸時代まで農民から武士までの広く人々に珍重され生活に浸透していたからである。「滴苔草」を研究すれば、「したたり草」にまつわる新しい発見があるかもしれないとの期待である。

 我が国の固有種である「したたり草」は室町時代に播磨国(現在の兵庫県)の山中の岩場に自生していたことが文献上の最古の記録である。もちろん、岩から水がしたたる場所にのみ生育できることからこの名前が付けられた。「したたる」はやまとことばであり、漢字の「滴」は訓読みとして当てたものである。

 室町時代にはこの「したたり草」を煎じて飲めば、滋養強壮に効果があることや、夜間に光ることで祭事や信仰の対象となっていた。同時に、「したたり草」を乾燥させ、「鹿の糞」と混ぜて燃やすと、その煙が幻覚作用を起こすこともわかっていた。さらに媚薬としての効果も著しかった。そのため、時の権力者たちは「したたり草」の祭事、信仰以外の利用を厳しく規制したが、「したたり草」はその目をくぐりぬけ、庶民の背徳感を刺激するものになっていたのである。

 江戸時代になり「したたり草」を使った男女の営みが隠れて徐々に広まり、「したたりごと」という言葉が生まれた。近畿地方では祝言の際、村の長が禁制の「したたり草」と「鹿の糞」を新郎に渡す習慣(*2)があり、市井の秘本や春画にしばしば「したたりごと」の文字が見受けられる。当時の人々には「したたり」とは淫らなことを想像させ、うっかり人前で言うにはばかられた言葉であった。先日開催された江戸東京博物館の特別展「江戸の大人の嗜み」では、場所柄もあって「したたりごと」をする春画のような展示はなかったが、挿絵にこのような句が書き添えてあった。

 「したたれば 今宵また来る 娘かな」

 庶民が作った句であるため、稚拙で趣も感じられないが、男の感情が粗く表れている。「したたれば」は「舌足れば」の意味を含ませているかは不明である。

 さて、いま大きな問題となっているのが、我が国に「にわか民俗研究家」が急増したことである。彼らは、中国に行って「滴苔草」を入手し、かつて信仰の対象でもあった「したたり草」に思いを馳せるのではなく、「鹿の糞」を用いて幻覚作用が体験できるか合法的に試すことなのである。一部には四川省の山中を分け入り虎に襲われる事故が多発し、日中の外交問題に発展する恐れも出てきている。また、中国で人工栽培された安価な「滴苔草101号」を入手するケースも起きている。「天然もの」、「人工もの」のどちらも「鹿の糞」と混ぜて燃やすと幻覚作用があるため、厚生省が薬事法改正を急いでいる。

 さらに、中国側を刺激しているのは、「滴苔草」と「パンダの糞」を混ぜて燃やすと、その煙は「鹿の糞」より激しい幻覚作用を起こすことが日本の「にわか民俗研究家」から四川省の住民へ広まってしまったことである。四川省では人々が糞欲しさにこぞってパンダの生育を犯す事態が相次いでいるのである。中国の国内法では人体に害を及ぼしかねない「滴苔草」を用いた幻覚行為そのものは違法とならない。しかし、パンダに関するものはとにかく重罪である。

 昨年度、中国での幻の「滴苔草」発見以来、我が国の近世の風習が中国四川省のパンダに及ぶという思いもかけない騒動となった。現在、中国の国立植物研究所で開発している「滴苔草」を用いたタンパク質の合成では、パンダの好きな笹の成分の合成にも用いられるようである。これで迷惑をかけているパンダへの罪滅ぼしに是非なってもらえればと関係者は願っている。


(註1)米国の学術雑誌『ネイチャー』と並んで世界で最も権威ある科学誌であり、これまでにノーベル賞クラスの業績が多数掲載されている。現在、希少生物や植物からの新しい有機物の発見とその応用方法について、国家間の競争が激しさを増している

(註2)播磨の赤穂藩は「したたり草」を幕府に隠れて密かに栽培し莫大な利益を上げ、その資金を幕府への裏工作に使った。それを断ち切ろうとした幕臣が、吉良上野介の知恵を借りて赤穂浅野家を弱体化させようと画策し、結果として忠臣蔵の物語になったとの説がある

三題噺(銀座・サラリーマン・ハンカチ)-2

着ぐるみとお父さんはつらいよ


 8月の土曜日、丸山は息子に起こされた。もう10時過ぎだ。この日、息子をアンパンマンショーに連れていく約束をしていた。地球温暖化か、ヒートアイランド現象か、気温は朝から30度を超えている。水を飲んだ。二日酔いの体に吸い込まれていく。

 息子は妻にせかされ着替えを始めている。既に息子にはタオルと水筒まで用意している。丸山も急いだ。ショーの開演は13時、場所は銀座M百貨店だ。最寄りの都営浅草線の戸越駅から東銀座までは20分位の行程だ。

 「ホントの銀座じゃなくて、戸越銀座でやってくれよ」

とは口に出さないが、身勝手な考えが二日酔いの重い頭をよぎる。
M百貨店で昼食にした。夏休みだ。食堂には丸山と同じ年くらいの父親と息子の組み合わせが多い。

 「みんな、ショー目当てだろうか? これは大変」

 早々に食堂を引き上げ屋上へ向かった。ハンカチで汗を拭うが用をなさない。妻はしっかり息子にはタオルを持たせた。

 「愛情の差だろうか? つまらないやっかみだな」

 さあアンパンマンショーの開幕だ、とうとう始まった。いつものようにバイキンマンが意地悪をする。少年たちがワーワー騒ぐ。その声援が大きくなるほど暑さが増す。もう最高潮だ。持っていたソフトクリームはみるみる頭が丸くなり、土台から崩壊しつつある。

 丸山は真夏の突き刺す光線に顔をしかめながら、不用意にもつぶやいてしまった。

 「この暑さで着ぐるみか。アンパンマンもつらいな~」

 しかし、その声が息子に聞こえてしまった。

 「お父さん、つらいのはアンパンマンじゃないよ」

 「中に入っているサラリーマンだよ」

三題噺(銀座・サラリーマン・ハンカチ)

うまい洒落で1杯サービス

 銀座にあるマスターひとりのカウンターバー。敷居が高いのか、不況なのか、あまり調子がよくない。そこでマスターは考えた。うまい洒落を披露した客には、水割り1杯サービス。ただの駄洒落でもいい。ただし1回だけの勝負がルール。店の雰囲気が明るくなり、会話も軽くなる。特に一人で来る客が増えてきた。

 丸山が一人で店に現れたのは9時頃、接待帰りだ。奥の薄暗いカウンターにはスーツを着た男が座っている。前回いつ来たか丸山は考えた。あのワセダの斎藤佑樹がプロに入った頃だ。契約金1億円、年棒1,500万円。それに比べ自分は600万。半分以下の価値だ。そこでひらめいた駄洒落で勝負したのだ。

 「年収は、ハンカチ王子の、半価値だ」

 それに対してマスターは、

 「文字で見ないと伝わらないです。聞いただけですぐ解らないと。これでは水割りはダメです。でも丸山さんの価値が斎藤佑樹の半分なんてことはないですよ。自信を持ってください。」

 丸山は前回、こんなやり取りをしたことを思い出した。
 マスターは奥の常連らしい紳士の話を興味深く聞いている。丸山もその博識さについ耳を傾けてしまう。

 「和食は素材だ。でも刺身、湯豆腐のうまさは醤油で決まる」
 「酵母の種類は無限にある。最高のものにいつか出会うはずだ」

 この客、素人ではないなと丸山は思った。ここは銀座のど真ん中。名のある学者、美食家だって来てもおかしくない。 少し飲んで接待の余韻も消えた。もう10時だ。今日は駄洒落なしで帰ろう。会計をお願いした時、そっとマスターに訊いてみた。

 「あのお客さん、何者?」
 「醤油を作っている大きな会社のお偉いさんですよ」

 丸山は酔いにも押されて思いつくまま言った。

 「ひょっとして、キッコーマンのサラリーマン???」
 「そうですよ。丸山さん、最後に駄洒落がうまく決まりましたね」
 「あっ!そうか・・・」

 丸山は帰るのを少し遅らせて、マスターから水割りを1杯もらった。

諸説ある「めがね」の語源は?(一部創作含む)

最近、レンズつきで5,000円というものもある。しかも、ひと昔前に比べ品質もよい。こうなれば、眼鏡を複数持って、場所、場合に使い分けることだって簡単になってきた。多くの人にとっての身近な存在である眼鏡。「めがね」の語源はいったい、どこにあるのだろう?

日本人が最初に見た眼鏡は、あのフランシスコザビエルが持ち込んだものといわれている。約500年前にもなる。その頃から何かしらの名前がついて、現在の「めがね」という言葉に至ったはずだ。漢字の「眼鏡」は明治時代に「顕微鏡」、「望遠鏡」と同じように意味を考えて当てたものだ。語源について、財団法人日本語研究センター上席研究員の松田明菜さんに伺った。

「諸説あります。まず、めがねの「め」は「眼」で間違いないところですが、「かね」には様々な説があります。「兼ねる」が転じたもの、金属の意味での「カネ」、お金(マネー)の意味での「カネ」があります。これまでは、お金(マネー)説が有力だったのですが、「兼ねる」説が研究者の間で支持を急速に上げています。」

なぜ「兼ねる」説が急浮上したのか?ザビエルの時代、眼鏡をかけた宣教師を見た人々は、「異人には目が四つある」と言ったとの記録がある。そもそも、レンズどころかガラスさえ見る機会のない時代。ピカピカ光るレンズが目に見えたのだ。レンズが目を兼ねる物、つまり「目兼ねもの」といわれ始めたようだ。

さらに、最近発見された江戸時代の瓦版に為政者を皮肉る文があり「目兼ねもの」説の説得力を増す形となっている。例えば、「殿様に目兼ねものありとて無しと似たり、同じく世の中見えぬなり」(お殿様が眼鏡を持っていてもいなくても同じ、どうせ世の中のことはわからない)という意味だ。

眼鏡が非常に貴重で高価ゆえに、眼につけるお金(マネー)で「めがね」と考えられていた。しかし、最新の研究によって出て来た「目兼ねもの」説。皆さんはどれを信じますか?

ロンドンオリンピックの真の優勝国は北朝鮮!?(一部創作含む)

日本の金銀銅を合わせたメダル数は38個で過去最高。参加国中6位に入った。今大会はまず「成功」といえるだろう。その選手たちを祝福する凱旋パレードでは50万人が銀座に集まった。ちなみにメダル数で1位のアメリカが104個、2位の中国が88個だ。

このような中、8月8日付け朝鮮中央通信(北朝鮮)が「ロンドン五輪の真の優勝国は朝鮮」と報じた。確かに普段見ることのない北朝鮮の選手が、柔道や重量挙げなどで活躍する場面は印象に残った。しかし、この根拠はどこにあるのだろう?

同メディアは「国別人口数などから見ても、他国に比べて圧倒的に優勝」としている。そこで国別の金メダル獲得数と人口を調査したのが下の表である。金メダル4個以上獲得した20カ国で、人口を金メダル数で割って、金メダル1個あたりの人口を求めたものだ。値が小さいほどいい。

1.png

北朝鮮は、20か国中13位。同胞の韓国にも及ばない。上位に4位の主催国イギリス、6位のカザフスタンなどがいる。この結果をどう理解すればいいか、元JOC委員で国際アマチュアスポーツについて著書もある中曽根慎太郎さんに伺った。

「いま、メダル数とGDPの関係が国際的に注目されています。北朝鮮は、口には出しませんが、他国のように金に任せてメダルを取ったのではないと言いたいのでしょう。」

北朝鮮のGDPは20か国中ジャマイカに続いて小さく、日本の200分の1程度だ。このことを考慮すれば、貧しい中で勝ち取った金メダルは「他国に比べて圧倒的に優勝」となりうるのである。

スポーツにも詳しい経営コンサルタントの石原康弘さんは、「国を会社に例えるなら、アメリカや中国は資金力のある大企業。北朝鮮は超ワンマン社長の貧しい零細企業です。金がかからず、体重別の種目に集中するなど明確な戦略で、逆境の中でも金メダルというヒット商品を出したといえます。成功した選手への過剰な待遇などに問題はありますが・・・。」

この国に対する思いは複雑だ。しかし選手たちの努力はたたえるべきだろう。仮に満足できない環境であっても、工夫と努力によって栄冠は勝ち取れる。苦境にあるビジネスマンにも参考になる話だ。

昭和歌謡

 車を手放してからもう10年以上、20代の頃は車の中ではいつもAMラジオを聴いていた。流れる歌謡曲が楽しみだったのだ。いい曲に出会うと、掘り当てたような気分になった。しかし、人を乗せたときはFMに切り替えた。ダサいのが嫌で恥ずかしかったのだ。

 先日、誘われてカラオケに行った。その昔は「歌本」があったが、今は画面付きのリモコンだ。ジャンルという項目がある。そこに何と昭和歌謡とある。平成になり20年以上過ぎ、ジャンルとして確立されたのだろう。なるほど、自分の好きな歌はいまでは昭和歌謡って呼ばれているのだ。

 昭和が平成に変わったあと、歌に深みと希望がなくなった気がする。古今東西、経済的な発展と文化には強い相関関係がある。昭和歌謡は表面的にはさまざまな曲調と歌詞がある。しかし低層に流れているものは、純情さと明るい明日を求めている姿だ。それが好きだ。だから大晦日は「紅白歌合戦」より「年忘れにっぽんの歌」がいい。

 歌は紛れもなくその社会の文化であり、その質に高い低いはない。鳥羽一郎の「兄弟舟」とシューベルトの「冬の旅」を比較し、どちらが優れているかを議論しても仕方がない。厄介なのはその先である。歌を含め文化には背負った品がある。人は上品なものを好きになりたい願望がある。上品に思われたいのである。それが大事で理屈では片付かないのである。20代の私のようにである。このことは「焼酎」と「ワイン」の関係にもいえる。女性に「うまい焼酎を飲みにいこう」とは言わない。誘う男性も「焼酎」よりも「ワイン」の好きな女性のほうが上品っぽく写るだろう。

 しかし、40歳を超えるとこの厄介な矛盾を克服していく自分がいる。これが年を重ねることなのかもしれない。さて、次回のカラオケでも昭和歌謡をせっせと歌おうと思う。

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。